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有力リフォーム経営者座談会《後編》ニッ...

有力リフォーム経営者座談会《後編》 ニッカホーム × ホームテック × OKUTA

ニッカホーム × ホームテック × OKUTA
榎戸欽治会長 × 高橋久明社長× 奥田勇会長
1152号 (2015/01/13発行) 6~7面
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今は全国に名をとどろかすリフォーム会社も創業時は小さな事務所、わずかな自己資金からスタートした。愛知のニッカホーム、東京のホームテック、埼玉のOKUTAが事業開始してから20年あまり。売り上げは50億円~200億円に拡大し、それぞれ数百人の社員を抱えている。今回、業界の雄である3人にこれまでの歩みと、事業戦略について話を聞いた

(聞き手/本紙社長・加覧光次郎)

ニッカホーム 榎戸欽治 会長ニッカホーム(愛知県名古屋市) 榎戸欽治 会長
1987年創業。水まわり工事等の交換需要を中心とした事業展開で、前期実績は約200億円(2014年12月決算)の見込み。近年は大問屋という屋号の給湯器やトイレをメーンで扱う新型店舗を展開。その数は既に19店舗に及ぶ。当面300億円の目標を目指し、新規出店と人員増員を続ける。
〈会社概要〉 本社:愛知県名古屋市/資本金:1000万円/店舗数:87店舗(ニッカホーム61店舗、マニカホーム4店舗、給湯器大問屋19店舗、塗替え大問屋3店舗)/社員数:900人超
ホームテック 高橋久明社長ホームテック(東京都多摩市) 高橋久明社長
1993年創業。1000平米を超える大型店舗を武器に売り上げを拡大し、前期実績は55億8000万円。昨年からは水まわり専門店である新業態「ミズファミ」も開設し、今までと違った顧客層の開拓も進める。2017年の上場を目指し事業拡大を進める。
〈会社概要〉 本社:東京都多摩市/資本金:5000万円/店舗数:12店舗(リフォームプライス9店舗、ミズファミ2店舗、その他1店舗)/社員数:136人(2014年4月1日現在)
OKUTA 奥田勇会長OKUTA(埼玉県さいたま市) 奥田勇会長
1991年創業。自然素材を使った提案型リフォームを得意とし、近年は世界水準の住宅性能を実現する「パッシブデザイン」を推進。前期実績は60億2800万円。1万3000人にも及ぶ有料会員制度や材工分離の仕組みであるOK-DEPOTなど、業界に先駆けた取り組みを進める。
〈会社概要〉 本社:埼玉県さいたま市/資本金:6700万円/店舗数:13店舗(ロハススタジオ12店、みずデポ1店)/社員数:251人(2014年1月現在)

ミシンの営業から浄化槽の営業へ

―――リフォーム産業新聞が創刊したのが1987年、実はニッカホームさんの個人創業時と全く同じ年になります。どんなきっかけで会社を興したのですか。

榎戸 最初は蛇の目ミシンの営業をしていたんです。それで26歳の時に静岡県三島市の支店長になりました。その後、支店長にしてくれた上司が名古屋で浄化槽を販売するというので一緒に来ないかという話がでて、行ったのです。売ることは造作もなかったんですが、会社がある程度大きくなると人も入ってきて最初の方向と変わってきた。その時、同期で入った人が自分でやるというので手伝いに行った際に、お風呂とかキッチンなどの話が出たら提案を広げていったんです。だから50万円の仕事が1000万円になったりとかね。

―――それがリフォームの初めですね。その後独立ですか。

榎戸 2年ぐらいやったんですが、辞めて地元の名古屋に戻ろうかというときに1冊の本を読んだんです。するとこれからはマンションリフォームの時代と書いてあった。当時、バランス釜から日立のカベピタという商品に取り換えをしている話は聞いていて、じゃあ飛び込み営業で郊外に行くよりも、市内の方が楽しそうと、マンションに営業したのですが初めてのところで売れてしまうんです。部屋が同じ作りだから、1つ売ると次にまた取れる。

―――連鎖受注ですね。

榎戸 1つのマンションで半年ぐらい商売できる。見積もりを書いたものをその場でコピーして現場管理もしながら、人を増やしつつやっていました。会社をつくるつもりはなかったんだけど、人が増え、保険などを気にする人も自然と出て、会社になってしまいました。

―――その法人化が1993年ですね。

榎戸 35、36歳ぐらいの時です。売り上げは3億円ぐらい。そのうち自分が半分ぐらい売っていたのがずーっと続いていました。ある時シロアリ屋さんの営業の子が、こんなチラシを東京で出しているよと1枚ポッと出したのがOKUTAさんのチラシ。こういうのがいいなと自分なりに研究して、知り合いのプロの漫画家にお願いしました。それから、飛び込み営業ではなくチラシで反響が来るようになったのです。

―――一方、高橋さんは、もともとミサワホームイングなので、経験者として独立されたのですよね。

高橋 そうですね。新卒でミサワホームイングに入って、8年勉強させてもらい1993年に独立しました。自分が学生の時は、300人、400人の会社だったらトップになれる、トップになった状態でその会社が上場し、金持ちになるんだ。何千万円か手に入ってから何をするか考えよう―そんなことを考えて会社に入ったのですが、意外にリフォームって面白いと、だんだん好きになっていったのです。

―――それで独立して、リフォームで幸せを提供することを始めたわけですね。

高橋 私が駆け出しのころの出来事なんですが、ホームテックの原点となる「おばあちゃんとクレヨン」というエピソードがあります。壁紙を張り替えたいというおばあちゃんの家に見に行ったら15畳ぐらいのリビング、床にはお仏壇や古新聞が置いてある。壁はすすけて全然楽しそうじゃないんです。そこで何をしているときが楽しいですかと聞いたら、隣の家に住んでいる孫が遊びにくるときという。じゃあということで畳一枚分、構造上は必要ない壁をたて、そこだけクレヨンで描いても消せる壁にしました。すると、月1回しか来なかった保育園をあがったくらいの2人の孫が毎週来るようになったんです。そしたらおばあちゃんが汚れた湯飲みも全部買い替えた。べたついていた家具のイスも買い替えたんです。

―――孫が来ることで、日常が変わっていったわけだ。

高橋 そう。着物もすべて洋服になりました。たかだか壁一枚でこんな力があるんだと。それで年末挨拶にいくと毎年、通帳を出し「これでなんかやってほしい」と言うんです。

―――リフォームは、生活を変える力があると思います。トイレなども壊れないから日本人はずっと同じものを使いますが、最新の商品は清掃性も機能も一昔前と全く違う。

高橋 ただ、独立した最初はやはり情報がないから厳しくて、1、2年は3億円ぐらいの売り上げのうち、新築の方が多かったですね。三井や住友の不動産ディーラーから土地を買った人を紹介してもらう。新築を断れるようになったのは10年ぐらい経ってからですかね。うちはやらないんですよと(笑)。

不動産営業でトップに20代の年収は3700万円

――――奥田さんは、最初リフォームではありませんよね。

奥田 私は異業種、理美容の専門学校を出て、そのままアデランスにいきました。そこで成績が良かったので、出身の北海道から本社の関東に転勤になりました。そこのお客様に不動産会社のすごいお金持ちがいて、新しもの好きで来るたび毎回50万円買ってくれたのです。その人が君は不動産会社に向いているよ、君だったら1000万円どころかすごい給料もらえると言う。でもそんな世界あるわけないじゃないですか。学歴もないし無理ですよと言ったら全然学歴は関係ないと言われ、トップセールスもとって記録も作ったときだったのでもういいかなと。でもかつらを売っていましたから、その不動産会社の秘密を握っていたわけです(笑)。ここは絶対就職できないなと家のそばの不動産会社に入りました。で飛び込んだら売れる売れる。

―――営業力があったんですね。

奥田 20代で年収3700万円ありましたから。1番売っていたから賞金もいっぱいもらっていた。でも不動産バブルが91年にはじけた。その時、僕は工夫してリフォームを付けて売っていました。ほかの営業マンは面倒くさいからやらない。だけどその方が面白いし、売れやすかったのです。すると段々リフォームの比重が大きくなっていきました。

―――戸建て住宅ですか。

奥田 戸建てが中心、古い戸建てにリフォームを付けて売っていた。でも不動産も陰りが見えてきた時、日経新聞を見たらこれからリフォーム業界4兆円と書いてあった。それでリフォームに行ってみようかなと、先輩が不動産会社を辞める時に誘われ、私は常務で立ち上げた。それが1991年です。

―――代表はその先輩がやっていたのですか。

奥田 そうです。川越で4人で始めました。で、紐がついている蕎麦屋さんのメニューあるじゃないですか。これだったら、反響があるというよりは、引き出しに入れてずーっと保管してもらえると思った。するともう初日からじゃんじゃん電話が鳴るんです。それで三芳町に移って僕が営業を仕切り4人だったのを27人ぐらいまで増やしたのかな。その後、大宮とか浦和方面に僕が明るかったので大宮店を作ろう、先輩はこっちをお願いしますといった矢先、「お前が会社買ってくれ」と言われた。たぶん面倒くさかったんでしょうね。「奥田さん社長やるしかないですよ」と社員におだてられて、不動産のときの貯金もあったからやるかと。それで立ち上げ、初年度の1月から9月の決算までで売り上げが3億4000万円。それから2001年の交通事故に遭うまで、資金繰りとかの問題もなく伸びました。

―――一切つまずくことはなかったわけですか。

奥田 だって事務所も家賃12万円ぐらいの安いところで、当時本社で15億円から20億円近くまでやっていましたから。チラシの反響営業がぐっと伸びていった。価格訴求型のマーケットがあったときなんだよね。それまで工務店とかがビフォーアフターのきれいなチラシを出していたけど、高かったんですよ。クロス平米7000円とか。まだチラシ上の価格競争がないから、高くても電話が鳴った。価格に透明性ができて、消費者に分かりやすくなったんでしょうね。そういうマーケットがあったけど、だれも気付かなかった。

―――反響率は相当なものだったでしょうね。1000分の1を切っていましたか。

奥田 500枚に1件か250枚に1件。だから反響件数は調整できるわけですよ。それもA4のチラシ。情報の非対称性というか、消費者になかった情報がオープンになったことが大きかったでしょう。

成長率上限は130%計画的に人材採用

―――皆さん違いはありますが、20年ぐらい前に立ち上げ、次のステップに進んでいったと思います。榎戸さんのところでは、何か売り上げが拡大するような転機はありましたか。

榎戸 いやうちはずっと一緒ですよ。ずーと125%の伸び。人、モノ、金、がたぶん引っかかってくるので、マックス130%ぐらいと踏んだんです。50%伸ばしたら、次の年に反動が来るだろうなと。だから130%を上限に伸ばしていくのが理想。結構人にウエートがかかる商売ですから、意識しながらやっていった。だから大きく拡大しているように見えて実はずっと同じです。

―――OKUTAさんのチラシを参考にしたという話がありましたが、その後はチラシ反響による営業体制に切り替えたということですよね。

榎戸 OKUTAさんのチラシで僕が見たのは犬がついていたピンクのチラシ。おしゃれだったんですよ。このおしゃれは僕には合わないなと、僕なりに目立つ色を考えて、注意標識、世の中の嫌われ者の毒蛇とかの黄色を使った。

―――反響はどうでした。

榎戸 200分の1とかはなかったですが、4000分の1か5000分の1でした。大きかったです。

展示会の影響で2002年にショールーム

―――高橋さんのところでは、チラシ営業をどんなきっかけで始めたのですか。

高橋 チラシはやっていたけど全然あたらない。ミサワホームイングでやっていたビフォーアフターのかっこいい事例チラシもしましたがやはりだめ。それで船井総研の五十棲さんに来てもらい、チラシを始めたのです。

―――その後ホームテックさんがショールーム化したのが2002年。最初は八王子ですね。そのあたりに10億円の壁を超えたとみているんですが、どうですか。

高橋 そんな感じでしょうね。ショールームを出す前にホームデポ・エキスポというラスベガスの展示会を見に行った。そこで影響を受けて、ショールームをやりたいと考え、実現したのが2002年の頃ですね。

―――――それでは、奥田さんの第2ステージはなんですか。ずっと順調に伸ばしてきたわけですよね。

奥田 伸ばしたのは2001年の交通事故までですね。僕は125%とかの目標は掲げておらず、人が育ったらやろうと。サーファーなんでほとんど千葉に住んでいて、会議で月に1回しか来なかった。事業拡大というよりも遊びまくっていましたね(笑)。

―――そうした中、よく伸ばせましたね。

奥田 任せるから。その人の成長度合いで広がっていった。それでも10年で39億、40億円ぐらいまでいき反響営業の陰りを感じていました。リフォームは参入障壁が低いじゃないですか、模倣されやすく、よりローコストで参入してた。で、コスト倒れになってきたんです。給料を高く払う状況になってくると価格に添加される。チラシで競争しても実売価格が勝負じゃないですか。いずれ非常に苦しいものになるんじゃないかという考えがあったんだけど、ちょうど交通事故の時に1年ぐらいリハビリの時期があったんです。

―――相当大きな事故で、よく無事でしたよね。

奥田 2001年の10月に高速道路で激突して、運転手が亡くなって、僕は頭を打った。で、今だから言えますが、言語障害、記憶障害になったんです。経営を続けられないんじゃないかと思うくらい。自分で書いた字が読めない。そのくらいひどかった。それで1年ぐらいリハビリをして、本を読んでいたら環境問題に目覚めたんです。建築業界の使っている建材のことも随分勉強することになっちゃって、どうやらビニールクロスは健康的なことを考えるとあまり好ましい建材じゃないなと、自分の中で突き詰めちゃった。これからはエコリフォームの時代が来るんじゃないかとロハスの方へ全部切り替えたんです。

―――2002年の脱塩ビ宣言ですね。

奥田 会社の人は交通事故でおかしくなったんだと思ったらしいですよ(笑)。でも親分がいうことをやるしかないみたいな。当時150人ぐらいですが、3分の1以上は辞めていきました。

―――じゃあ50人ぐらい辞めたわけですか。

奥田 段々とです。新しい理念に基づいた社員との入れ替えの時期。で2003年にスタジオ化していって、お客様の単価を年々あげていったんです。2001年の最後のときは70万円、それを90万、100万円として今は500万円ぐらい。単価と質をどのくらいまで上げていけるかの面白味も感じていた。

―――ミッション経営も2003年ですね。

奥田 お金をかけるのではなく、理念経営に共感できる質のいい社員を入れた。それまでは、年収1500万円ぐらいの社員もいたと思います。でもそれではまずいなと、やはり給料が価格に添加されるビジネスなので、給料体系を見直すことに取り組んだんです。そして無添加リフォームを手掛け、ロハススタジオに変えていった。それも外国にいって勉強したんですが、ロハスという言葉はそこまで日本では市民権がなかったんですね。だから商標もとれた。その頃ちょうどリフォーム詐欺事件が社会問題となり、ついでに姉歯事件もおきた。100本あった反響が25本までしか入らなくなり、四十数億だった売り上げが、単年度で12億5000万円落ちました。OKUTA始まって以来の危機は、僕の交通事故ではなく、ここでした。

―――12億円落ちてよく持ちましたね。

奥田 借金はなかったので。遊んでいたけど、そんなにお金は使いませんでした。結構地味でした(笑)。

―――榎戸さんは、成長に不安を感じた時はないですか。

榎戸 30億円を突破したころに、このままいったら来年130%は無理だなと感じていたんです。それで今の社長に少しずつ移行していった。

―――30億円というと2005年、120人のころですね。10店舗になったときです。

榎戸 そのくらいから自分のやれる量というのが見えて来る。そうすると会社に気持ちをいれこませないといけないと。自分の中でこの子がいいという子をたてていき、期待通り頑張ってもらったというのが大きい。企業は人だから人が育たないと成長しない、自分の中で右と左くらいの人材しか持てないから、右と左の人がさらに右と左を作ってもらえれば一番早い。自分でもっと伸ばしたいと考えていた部分もありますが、少しずつバトンタッチしていきました。

――現社長の西田さんにバトンタッチしたのは8年前のことですよね。

榎戸 そうですね。当時西田が31歳か32歳の時です。でも自分も遊ぶわけではなく、自らもっている仲間と同じようにやっていく、こっちはこっちで負けないように。いずれ優秀な人は自分でやりたい、独立したいとなりますが、そうした人たちを次のステップに導いてあげると、辞める気持ちが薄れ、前を向いてくれる。ずーっとその繰り返しです。その社員も今は新卒がかなり多くなりました。分社化したニッカホーム名古屋の社長の奥園も新卒だし頑張っている子も新卒がたくさんいます。900人強の半分以上が新卒です。そうしてやっていくことによって人、モノ、金がバランスよく残っていったと思います。

―――有力リフォーム経営者座談会≪前編≫ ニッカホーム × ホームテック × OKUTAはこちら
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