紅中 中村晃輔社長
"販売代理"から"購買代理"へ
紅中(べにちゅう)は昭和26年、京都で合板を扱う会社として設立された。現在は大阪を本社に産業資材、住設・建材の販売、2次加工納材等で全国展開している。3代目となる中村晃輔社長に、その理念や展望等を聞いた。
需要をつかみ全国展開
―― 建材を扱う会社で紅中という社名は珍しいです。
社名については、創業した先々代が呉服の仕事から始めて戦後はベニヤ建材で起業したことから"繊維出身"の象徴と"ベニヤ板"に通じる「紅」に、"中村"の姓の「中」を合わせて前身の「紅中商会」と決めたと聞いています。また我が家は代々京都で、私も今でも京都に住まいがありますが、会社は起業後すぐに大阪に移転して登記上しか残っていません。しかし商売の仕方などは、よく"京都らしく、ねばちっこい"と言われますね(笑)。
―― 創業から早い時期に大阪、東京、名古屋と店舗を拡大しています。「戦後復興にベニヤ」という創業者の狙いは正しかったですね。
創業当初は大手百貨店の建装部の仕事を受けていましたので、そこが関西、関東、中部と進出したため当社もそれに付いていったようです。その後もセキスイハイムさんの協力会社になり、合板のカットや穴あけ等の加工を行う場外工場として、ハイムさんの工場拡大とともに自然と全国に展開していきました。
―― 産業用木質資材、建築用資材だけでなく、家具の製造販売、二次加工等と幅広く扱っています。どのくらいの割合なのでしょう。
前期の売り上げは256億円ですが、現在、工場へ納材する産業用資材と住宅用資材の割合はちょうど半々くらい。得意先ではセキスイハイムさん、飯田産業さん、コーナン商事さん、パナマウントベッドさんでしょうか。変わったところではLNG運搬船の防熱箱も扱ったことがあります。
何万個という箱の中に断熱材のパーライトを入れて防熱するというもので、売り上げが大きかった分、無くなった時の影響も大きく受けました。以来あまり得意先を集中させていません。加工では最近は病院向けのテレビ台等の医療用家具を製作しています。
卸業拡大を選択
―― 先代の時に二次卸し部門を独立させ別会社を立ち上げました。卸業を拡大させる転機だったのでしょうか。
先々代は呉服を扱っていた経験から"先に注文を取ってから仕入れを行う"商売を第一に考えていました。資金も在庫もいらないですし"ユーザーの声を直接聞いて加工する人に建材を売る"ことにこだわっていました。ただ先代が関わるようになった頃には、お客さんも建材を作るようになったのですね。そこで昭和46年「紅中商会」を「紅中」と改称し直需販売に特化させ、卸部門を「建」という別会社に独立させました。ピーク時は100億円ほどの売り上げになり、流通さんを集めて"建究会"という業界サークルも開催していました。その後、紅中の方で配送システムを作った時に、物流が必要になり、平成9年に合併させました。
―― 住宅用資材で卸しの売り上げはどのくらいでしょう。
今、二次卸しは売り上げの2割ほど。残り8割はビルダーやメーカーさん、個人の工務店さんへの小売りです。一時"選択と集中"に向かって絞りすぎたことがあり、扱い口座も850社くらいまで減らしましたが、再び1000社までは増やそうとしています。
―― 住まいを京都から移さないなど"伝統"を重んじつつ、時代の変化に適応する社風のようですね。
京都の我が家から、大阪の本社まで通勤に1時間半以上(笑)。それでも今は東京、仙台、名古屋、九州と全国を転々としていますので、そんなに苦にならないですね。今年2月にはさいたま営業所を開設し、全国で営業拠点14カ所、配送センター等4カ所、工場が6カ所になりました。各地を行き来していますと"住所不定"になります(笑)。
―― 社長就任から3年余り、紅中はどう変わっていくのでしょう。
当社が産業資材から建築業界に入って約15年。今、当社は営業マンが85人おりますが、メーカーが作ったものをそのまま売るのではなく、お客様の立場に立ってふさわしいものを選んで売る、いわゆる"販売代理ではなく購買代理"を心掛けるようにしています。
私自身も他社で"リベート商売"のような経験がありますが、それでは結局価格だけになってしまう。流通は多くの情報を持っていますので、メーカーさんとは違ったご提案をしていきたいと思っています。

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